イズミイズム

ツリーハウスはヘンテコリンに楽しく思いどおりにつくる。

手間がかかってもいろんな材料を拾ってきたり組み合わせたりして。

そう決めて取りかかりました。

今、ようやく壁をつくり始めたところなのですが

大問題が発生しています。

わたしのこころの中で。

それはずばり

「アート」

というものについて。

わたしはもしかしたら本当の「感動」というものを経験したことがない。

という疑惑がありまして、実はそれは前から時々気になっていたことなのです。

学生の頃、美術館に行ったり、誰かの展示を見に行ったりして

そのときは「きれいだな」「すごいな」「いいな」とか思っても、正直「感動」というのは

今イチよくわからない。

今でもその時のカンドウを覚えてる作品なんてひとつもない。

なんでもいいから何かでこころを奪われたり、考え方が変わったり。

人生をまるごと思い返してみても見当たらないのです。

アートってなんじゃい。

それってものすごくさみしい人間なのかなと。

どうしようもなくむなしくて、かなしくて、さみしいと思いました。

話変わってツリーハウスでは、ようやく壁の制作に取りかかったところですが

もうひとつわたしは気づいてしまったのです。

というか思い知らされたというか。

大工らしいことなんてほんとになーんにもできないってことです。

真っ直ぐな柱に壁をつくったことだってほぼないのに

よじれて曲がっている3次元の世界がどれほど大変か想像もできませんでした。

左右に柱を立てて、間に間柱も入れて板を貼っちゃえばいい。

その柱や間柱が角ではなく、曲がった枝だったとしてもやることは一緒だ。

でもほんとにそんな感じでつくってたら雑で汚らしくて恐ろしくなりました。

おもてたんとちがう。

イメージはぼんやりぼやけちゃっててはっきり見えない。

垂直・平行であることがいかに楽か。

「柱が傾いていてもいいけど、ねじれていたらいけないよ」

師匠が言っていた意味がやっと、やっとわかったんです。つい昨日。

おまけにもうひとつ。

壁ってとにかくかなり自由につくれるものなんです。

形、素材も自由だし、ちゃんとした床があるから作業もしやすい。

でもつくり始めた自由が許された壁は、自由なはずなのに思いどおりにできない。

どこかわざとらしい。

ここをどうしてこうしたの?と聞かれて

とくに理由がない。

それがいいと思ったから。

でもそれを否定されたとき、強く「これが一番いいんだ!」と言える自分なりの

説明も、自信がないからできない。

よくないと言われたらほんとによくないと思えてくる。

自分の感性に自信がない。

これって感動したことないからなんじゃないかとか思ったり。

自分の感性を否定されるのってものすごく怖いんですよね。

自分のすべてをだめだって言われてるような気がしてくる。

すでに出来ている床と屋根はあんまり選択肢がなかったというか

わりと制約がありました。

あの木の幹や枝に直接床の土台となる大引を固定したから木の枝の伸び方に従って

自然と現在のいびつな形の床になりました。

屋根は重さの面で木への負担を減らしたり、枝を家の中に入れたいという理由で

頭上に伸びる枝を梁にして垂木をかけていったのでその形になりました。

あのツリーハウスは「あの木にふさわしく」という意味で適当につくった家だけど

あのカタチはわざとではない。

「アートとワザト」

だから「アーティスト」っていう人たちってほんとにすごいなと思うんです。

だってその人の作品のすべての理由は感性そのものなわけでしょう?

それに自信を持っていて、高い値段をつけて、黙々と制作にいそしむ。

周りに認めてほしいなんて思う人間はアーティストにはなれないだろう。

そんなこと思ってないと思ってたんだけどなー。

わたしはいったい何がしたいのでしょうか。

こんなことをブログで書いて「そんなことないよ」とか言って慰めてもらいたい

なんて思ってる自分がもしいたら抹殺してやりたいんですけど、

この方法はとっても気持ちがすっきりするので書きました。

これが解決して、イズミイズムが完成したら

わたしのものづくり人生が変わるかもしれない

なんて思ってます。

2012・2・1,こころの叫びをここに記す

 

たにぐち